オーディオ黎明期~1970年代(1)
私がオーディオ(当時はステレオと言っていた)と言う趣味を知ることになったのは丁度この時期です。
かれこれ約40年になろうとしています。
以前HPで過去に遡って書いたこともありましたが、今は閉鎖しているので改めて「自分史」として残して置こうと思い、書いてみました。
内容としてはオーディオ関連が主体ですが、内訳は大雑把に言って
1.~東京のマンション生活(~1991)
2.週末田舎暮らし(1991~1997)(東京と伊豆の往復)
3.田舎暮らし(1997~2009)
4.田舎暮らし(サンデー毎日)(2009~)
になりますので2.の期間は略オーディオから離れた話題(庭造りや木工等)となる予定です。
記憶も定かではないことが多くなりましたので、内容は事実に忠実と言うよりはデフォルメして面白おかしく書いて行きたいと思っています。
どこまで書けるか分かりませんがお読み頂いて楽しんで頂けたら幸いです。
枕が長くなりましたのでこれから本題に入ります。
私は兵庫の山陰地方の田舎の高校を出て’67にM銀行に入行。京都支店に配属されました。最初の独身寮は大阪の高槻寮でした。
最初の3年間(?)は祇園祭は銀行も休みでした。ですから、祇園祭はいつでも見られるとばかりに他に遊びに行っていました。するとその後休みでなくなったのでした(;´Д`A ```。
ですから、山鉾巡航は見ていません。宵山は見ましたが...。゜゜(´□`。)°゜。。
1年後、京都の桂寮に転居しました。
この年にはひとつ違いの弟も○●電機に就職してその翌年の3月に二人で四条烏丸から徒歩で大原の三千院・寂光院*まで行ったことがあります。何時間掛ったか覚えていませんがいくつかの山越え峠越えがありましたので結構大変でした。
到着した頃雪が降って来ましたので帰りはバスです。雪が降らなければ帰りも歩く積りでした(片道直線距離約16km位かな・・・自信はありません)。
*残念ながら’00に放火され、焼失。’05に再建(犯人未逮捕)。
今では考えられないですが、若さって凄いなと思います。
京都は歴史ある街でややもすると部外者が中々懐に入り難い感じもありました。ある意味とても封建的な街です。しかし、一旦親しくなると非常に付き合い易い人が多かったように思います。政治的には左の傾向が強かったように記憶しています。
私にとっても初めての大都市でしたので最初はすっかり舞い上がっていました。
未だ18歳なのに歓迎会ではお酒を飲まされ、その所為もあって徐々に鍛えられました。
ただ、私はタバコはやりませんでしたので今思えば、半分で済んだので体の為にまぁ良かったのかな、と思っています(今の状態を考えると両方やっていたら今頃はあっちの世界へ逝っていたでしょうね(。>0<。))。
20歳を過ぎた頃からは一端に大人ぶって盛り場に一人で飲みに行ったりもしました。どちらかと言うと赤ちょうちんと言うところではなくバーとかクラブっぽいところが多かったように思います。
勿論安月給ですので月に何回も行ける訳ではありません。その他は先輩を頼って連れて行って貰いました。
最近の若い人はこう言う付き合いが減ったように聞きますが、当時はそうでもしないと中々お酒も飲めないし、付き合い上も大切なことだと思っていました。
要は帰宅しても時間がたっぷりあってやることがない、と言う今とは違って人との付き合いが一番の楽しみでもありました。
こう言うことを経験しながら何かのめり込める趣味でもやらないと後々振り返ってみた時何もない人生になっているのも寂しいぞ、と思うようになりました。
オーディオに入る前にカメラに夢中になり暫くは両方楽しんでいましたが、私にはオーディオの方が性に合ったのか未だに続く良いパートナーとなったのでした。
それでも京都時代はカメラを片手に結構神社仏閣を見て回りました。当時既にカラーは勿論ありましたが、私はモノクロで撮っていました。あの白黒の果てしないグラデーションが好きなのです。
近くには苔寺もありましたし、嵐山も近かった。残念ながら桂離宮は事前申請が必要だったので一番近かったのですが、行っていません。。゜゜(´□`。)°゜。
最初のカメラはアサヒペンタックスSPでした。
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