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2011年4月24日 (日)

親和と敵対

4/22、寝ながらニュースを見ていてこの言葉が耳に入った。

内容的にはおぼろげながら究極の敵対(構造物)が原発云々と言っていたようです。

つまり自然に対する親和と敵対の構図を言われていたのでしょう。

で、朝起きてこの対比で少し考えてみました。

人間の作るモノはとどのつまり、自然に対しては全て敵対構造物です。

どんなに工夫しても、です。

そんな中でより親和性に富んだモノを考えて採り入れたケースもあります。

逆に敵対構造物の最たるモノが原発であり、ダムであり、防波堤です。準じたモノは数え切れません。

そんな中、憂うべきニュースが目に入った。

それが次のニュースです。

東日本大震災で決壊した福島県須賀川市の藤沼湖は、震度6弱近い揺れで、盛り土でできたダム(高さ約17.5メートル)に亀裂が生じ、決壊につながった可能性のあることが、福島大などの現地調査で分かった~4/23毎日新聞より

私は以前から原発よりもダムのことが心配でした(今回のような原発事故が起こることは想定外であった為思いも付かなかっただけですが)。

日本各地には多くの巨大ダムが造られています。

勿論最善の注意をしながら管理・運営をしているのでしょうが、これとて永久不滅のモノではありません。

いつかは老朽化による亀裂等も生じるでしょう。そこへ持って来て巨大地震の多発によって更に亀裂の極大化が生じれば結果は悲惨なことになります。

崩れる前に水の放水をしたとしても一気にやれば下流の生活エリアは水没するし、少しづつやっていれば持ち堪えられなくなって崩壊してそれこそ大量の水が土石流となって襲い掛かります。

常識的には考えられないコンクリートの厚さですが、人間の考えることが自然の猛威を封じ込めることなどない、と言うことが今回の原発事故で良く分かったことと思います。

力づくで自然を押し止める力は人間にはありません。

今回のダム決壊で人間が作った巨大構造物は悉く自然の前にひれ伏したことになります。

今後は原発に加え、ダムの整備・点検も喫緊課題となることでしょう。

又、防波堤などと言うモノは幾らやっても限界があると言うことが見えたのでこれからは人の居住区の高台への移動等を優先させるべきでしょう。

今となっては遅いですが、黒姫山にお住まいのC.W.ニコルさんがかつて里山の再生を目指しダム建設に反対し、河川の氾濫を抑える手段として川の在り様を変えるのではなく、水の溜り場を作って流れを抑制する提案をされていたような記憶があります(昔のことなので自信はありませんが)。

今、河川の改修工事と言えば全て護岸工事をしてストレートに水を流すような仕組みになっているけれど言い方を変えるとこれが最も危険なのです。

これでは魚も住み難くなりますし、他の水生生物の減少・衰退に繋がります。

川は昔からの流れを覚えていますので水量が増せば元の木阿弥です。

水の勢いが益々強くなって押し流されて行くのです(川は排水路ではありません)。

私が幼い頃は田舎の川も未だ護岸工事はそれほどされていませんでした。

ですから子供も川に降りて河原や水辺で遊んだりしたことが却って川を奇麗に保っていたように記憶しています。

護岸工事がされると中々下りて行けない構造になりますので却って川は汚れ・荒れます。

これは里山と同じですね。

自然には適度に人の手が入った方が良いのです。これが自然と馴染む親和性のある構造物と言えるのではないでしょうか。

自然を押さえつけるのではなく自然に人が寄り添って行くような構造物を作って自然と共に暮らす構造を今一度考える時期に来ているような気がします。

これからは何事も容量と言うモノに着目して余裕を持った基盤作りをすべきです。

現在は全てにおいて一杯一杯になっています。だから起きた事象が全て想定外になるのです。

自然災害もそうだし、コンピュータ社会もそうです。ゆとりある本来の生活にしたいですね。

皆さんは如何お考えでしょうか。

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