日本列島地名の謎を解く・・・谷川彰英著
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第1章
聞いてびっくり!ユニークな地名
1 宮本武蔵[みやもとむさし](岡山県美作市)
こんな駅名があっていいのか!?
「武蔵の里」は観光用に売り出しているものだった。
宮本武蔵の生誕地に関しては複数の候補地があって、どこであるかは諸説あって定まらない。
この地に生まれたという説は、実は吉川英治の小説「宮本武蔵」に「郷里の作州 宮本村」と書かれていたことからさらに広まったという。
これはあくまでも小説上の話。
武蔵は自著「五輪書」で「生国播磨」と書いている。
「播磨国」は現在の兵庫県西南部であり、「美作国」はその隣で、現在は岡山県である。
2 南蛇井[なんじゃい](群馬県富岡市)
水戸藩主徳川光圀公に始まり、明治になって完成した「大日本史」には、「那射、今ノ南蛇井村」と記されている。
これできまり。
3 極楽[ごくらく](愛知県名古屋市)
この中心地は「高針村」と呼ばれていた所で、「極楽」となったのは1979年、猪高町大字高針から「極楽」となってつくられた町名である。
4 輪島[わじま](石川県輪島市)
島ではなく「鷲魔」だった!
それは昔、ここに鷲の悪鳥が棲んでいたという話である。
「昔鷲の悪鳥住しより鷲魔の名あり」と書いているのは1931年、石川県図書館協会が刊行した「能登名跡志」である。
5 己斐[こい](広島県広島市)
鎌倉期から明治に至るまで「己斐村」として長い歴史を刻んできたが、1911年に「己斐町」、さらに1929年に広島市に編入されて今日に至っている。
昔、神功皇后が西国の熊襲征伐に向かった折、県主が大きな鯉を献上したところ、皇后がたいそう喜ばれ、それにちなんで「鯉村」と名づけたのだという。
それがなぜ「己斐村」に変わったのか。
それは元明天皇が全国の風土記を編集するに当たって、「好き字」に改めよという勅令を出したことによる。
「好字」でしかも二字であることは、この1300年前の政策の名残である。
この「己斐」(鯉)は広島のシンボルで、毛利輝元築城になる広島城も別名「鯉城」とも呼ばれている。
6 桑原町[くわばらちょう](京都府京都市)
平安時代の初期に菅原道真という当代一流の人物がいた。
しかし、ライバルとして覇を競っていた藤原時平の讒言によって九州大宰府に左遷されることになった。
道真は失意のまま903年2月25日、大宰府で亡くなった。
ところがその後、時平が病死したのをはじめ、道真失脚の首謀者が死亡するなど不穏な出来事が相次いで起こった。
これらは道真の祟りだと都では恐れられたという。
実は桑原町は道真の領地だった所で、落雷で脅かされた都の中で、唯一雷が落ちなかったと伝えられている。
そこから、人々は雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言って難を逃れるようになったのだという。
これが「くわばら、くわばら」の語源だ。
7 おとめ山[おとめやま](東京都新宿区)
「おとめ山」は「乙女」とは縁もゆかりもない。
江戸時代は将軍の「狩り場」だったことから「お留山」「御禁止山」と呼ばれていたことに由来する。
8 男女川[みなのがわ] (茨城県つくば市)
なぜ「水無川」が「男女川」に変わったのか、それは「男女」合わせれば「皆」だからである。
つくば市には「男女川」という美味しい日本酒もある。
9 向津具[むかつく](山口県長門市)
この向津具は大津郡に属していた。
この大津郡には九つの郷があって、その一つが「向国」であった。
意味からすれば「向こうにある国」である。
10 半家[はげ](高知県四万十市)
この「半家」は「ハケ」「ハゲ」といった「崖」にちなんだ地名である。
これは漢字が日本に入ってくる以前からあった地名で、これらの「音」に漢字を当てはめただけのことである。
同じ理屈で考えれば、「半家」は「ハゲ」つまり「崖」の意味である。
11 浮気[ふけ](滋賀県守山市)
漢字が入ってくるまでは「フケ」という音で伝えられてきた地名である。
意味は「低湿地帯」のことで、全国各地にみられる地名である。
しかし、「浮気」という漢字が当てられているのは、この守山市以外にはない。
12 十八女[さかり](徳島県阿南市)
この集落には湯浅姓が多い。
祖先の湯浅但馬守の位牌を見せて頂くと1189年9月16日没と記されている。
壇ノ浦で平家が滅亡した4年後ということになる。
その湯浅但馬守が姫君をかくまって8歳から18歳まで育てたという伝承から、「十八女」という地名がうまれたのだという。
13 乳頭温泉[にゅうとうおんせん](秋田県仙北市)
この温泉郷を懐に抱いている「乳頭山」にある。
この山の名は、頂上が女性の「乳頭」に似ているところからつけられたのだという。
乳頭って何歳ぐらいの女性の乳頭なのか、と尋ねると、古老は、「20歳だべがな」と答えてくれた。
14 吉里吉里[きりきり] (岩手県大槌町)
この地域は1889年に「大槌町」が成立するまで「吉里吉里村」と称していた。
「砂浜を歩きますと、キリキリと砂が軋みますでしょう。
そこでアイヌ人たちは砂浜のことをきりきりと呼ぶようになったのだそうですね。
ですから東北の海や川の近くには吉里吉里、ないしは木理木理という地名が沢山あると」
第2章
動物が地名をもたらした
1 飛鳥[あすか](奈良県)
真ん中に三輪山が座り、向かって左に龍王山、右に巻向山が翼を広げている。
「飛ぶ鳥の明日香」はこの山容に由来するのではないか。
2 熊谷[くまがや](埼玉県熊谷市)
「熊谷」の地名の由来として熊谷直実の父直貞が熊退治をしたという伝説がある。
熊谷家がこの地に知行を得たのは、直貞が熊退治をした功によるものだという点ではほぼ一致している。
3 鵠沼[くげぬま](神奈川県藤沢市)
「湘南」はもともとは「相模国」の南に位置していることから「相南」なのだが、中国湖南省の「湘江」にちなんで「湘南」とした。
「鵠」とは白鳥のことである。
「熊谷」は昔白鳥が飛来してできた地名である。
4 犬山[いぬやま](愛知県犬山市)
大縣神社は、女陰を祀る神社として知られ、田縣神社は男根を祀る神社として有名である。
田縣神社と大縣神社の関係で、安産の神が生まれ、その一つ大縣神社から、犬山にある針綱神社に玉姫が赴いたことになる。
現在の位置関係では、北西と言うよりは「北北西」に近いが、大まかにいえば「乾」の方角と言っても差し支えない。
「乾」が「犬」に転化することはよくある話である。
犬はもともと安産祈願の神様のような存在であり、そこから針綱神社が安産の神様になったことになる。
5 亀有[かめあり](東京都葛飾区)
ここは江戸時代以前は「亀無」「亀梨」と書かれていた。
「亀有」となったのは1645年のことだという。
幕府が国図を作成するに当たって、「なし」は縁起がよくないので、「あり」にしたというのだ。
6 猫実[ねこざね](千葉県浦安市)
鎌倉時代に永仁の大津波に遭い、部落は甚大な被害を被った。
その後部落の人たちは、豊受神社付近に堅固な堤防を築き、その上に松の木を植え、津波の襲来に備えた。
この松の根を波浪が越さじとの意味から「根越さね」と言い、それがいつの間にか猫実と称せられるようになり、本村の村名となったという。
7 狙半内[さるはんない](秋田県横手市)
江戸時代には「猿半内」と書かれていた。
「猿半内」が「狙半内」に変わったのは1889年の町村制の施行によるものである。
「狙」は「手長猿」のことで、「猿」も「狙」も大きな意味の違いはない。
矢口高雄が生まれた狙半内村は「(釣りキチ)三平の里」して売り出された。
8 虎姫[とらひめ](滋賀県長浜市)
昔、豊臣秀吉が造った町として知られる長浜。
その北に虎姫町という町があった。
2010年1月1日、他の5町とともに長浜市へ編入された。
東に伊吹山を望み、北部に「虎御前山」という山があり、これが「虎姫」の地名の由来になったとのこと。
第3章
都会で気になる地名の謎
1 青山[あおやま](東京都港区)
1591年は家康が江戸入府した翌年のこと。
青山忠成は家康より9歳年下だったが、幼児から家康の小姓を務め、家康の全幅の信認を得ていたと言われる。
現在の青山霊園がかつての青山家の屋敷跡である。
2 代々木[よよぎ](東京都渋谷区)
「代々木下屋敷井伊家の大樅」
つまり、今の明治神宮は江戸時代には井伊家の下屋敷であったということだ。
この古木は第二次世界大戦の空襲によって消失してしまって今はない。
だが、境内には新しい「代々木」が指定されているという。
3 梅田[うめだ](大阪府大阪市北区)
地元から言えば、やはり中心は私鉄各線が集まってくる「大阪」駅だということになる。
ところが、この「大阪」駅を名乗るものはJR線のみであって、他の私鉄や地下鉄は同じ場所に、ありながら「梅田」と名乗っている。
なぜJRは「大阪」で私鉄は「梅田」なのか。
そこには国と大阪市の間の厳しい「仁義なき戦い」があった。
現在の大阪と神戸の間に鉄道が敷かれたのは1874年のこと。
この「大阪」駅は現存しているJR駅の中では最古の駅として知られる。
この「大阪駅」は大阪の町のシンボルともいえるものであった。
ところが1889年に大阪市が発足するや、大阪市は市内の鉄道を一元的に管理しようと考えた。
鉄道の収入は莫大な額になり、それを押さることはすなわち市の収入を確保することにつながった訳なのだ。
そこで、大阪市は国に対して、私鉄が大阪市内に乗り込んでくるよう国に働きかけてきたら、それを拒否するよう裏工作をしたのである。
ところがその戦略は明治政府によってあえなく断られ、それ以降大阪市は国に対して抵抗の姿勢を貫くことになる。
もともと、秀吉の大坂時代から江戸に向けてライバル意識を燃やしていた大阪のことである。
大阪市は「大阪」駅の、まん前に「梅田停車場」という駅を置いてしまった。
国がつくった「大阪」駅に対抗してである。
人々は「梅田ステンショ」と呼んだ。
すると、その動きを察知した阪神や阪急の私鉄が大阪に乗り入れる際に、そのターミナル駅として「阪神梅田」駅、「阪急梅田」駅が完成した。
さらに大阪市は地下鉄を整備するに当たって、御堂筋線は「梅田」駅、谷町線は「東梅田」駅、四ツ橋線は「西梅田」駅を置き、結局JRの「大阪駅」の包囲網が完成した。
つまり、国がつくった「大阪」駅に対して、大阪市が認定した私鉄・市営の駅はすべて「梅田」駅になったということである。
国と大阪市とのねじれ現象の結果がこのような結果を招いているのだが、大阪人の反骨精神が垣間見えて、これはこれで中々面白い。
梅田と言う駅名の由来についてはこの地一帯は大阪市の北部で低湿地帯であった。
もともと田んぼの所を「埋めた」ところから「埋め田」だったのだが、イメージを変えるために「梅田」にしたに過ぎない。
4 針中野[はりなかの](大阪府大阪市東住吉区)
この町名は江戸時代から開業している診療科の医院があって、その医院の名前から付けられた。
この地に電車が通ることになった時、この辺一帯を寄付して電車が通るのに貢献したとのこと。
それで、地元の人々は中野さんに感謝して「針中野」という駅名を付けたのだという。
そして、それが「針中野」という町名になったのだという。
5 立売堀[いたちぼり](大阪府大阪市西区)
「立売堀」は「道頓堀」のさらにその北を東西に流れていたが、今の「中央大通」の少し南に位置していた。
(株)花王の大阪事業所の入り口に「立売堀川跡」という小さな記念碑が建てられており、そこには1626年開削、1956年埋立」と刻まれている。
300年以上も大阪の街の発展に尽くしてきた堀ということになる。
肝心の「立売堀」の由来だが、「大坂の陣」の際、この地が伊達家の陣所となったことから「伊達(だて)堀」と呼ばれていたが、大坂の人にとっては「伊達」はどう見ても「イタチ」としか読むことができず、「伊達(イタチ)堀」と呼んでいたらしい。
古代においては「伊達」は「いだち」「いだて」と呼ばれていた。
その接頭語のような「い」が抜けて「だて」と呼ばれるようになった。
「伊達」がなぜ「立売」に変わったのか、はこの堀を利用して集めた木材の「立ち売り」が許されて商売繁盛したところに由来するという。
6 関内[かんない](神奈川県横浜市)
「桜木町駅」が明治の初めにつくられた、我が国最初の鉄道のターミナル駅であることを知る人は少ない。
当時の「新橋-横浜」間の「横浜駅」とは現在の「桜木町駅」のことだった。
横浜には、開港以来多くの外国人が居留地に住むことが定められたが、「山手」と「山下」の両方にわたっていた。
当時は日本人による外国人殺傷事件が相次いで起こっていた時期であり、幕府は出入りする橋のたもとに「関門」を設けてチェックした。
その内側が「関内」であり、外側が「関外」であった。
発展を続けた横浜に1866年、大火が襲い、関内の3分の1が焼失してしまった。
幕府は居留地を使用している諸外国と協議して、復興を行った。
7 国分町[こくぶんちょう](宮城県仙台市)
「封内風土記」によれば、「昔「千葉上総介平五郎胤道」が宮城郡国分荘を領してこの城に居住したことによって国分と称されるようになった」
「千葉上総介平常胤」とは平五郎胤道の父であり、千葉常胤のことで、頼朝を助けて鎌倉幕府を開いた最大の貢献者と言われる。
地元の千葉市では、2018年に生誕900年を記念するイベントも行われている。
その五男が「胤道」で、一般に「国分胤道」と呼ばれている。
この「国分」は上総国の国分寺のある現在の千葉県市川市国府台に領土を拝したことによる。
この筋で言えば、仙台の国分町のルーツは千葉縁市川市であるということになる。
8 二階堂[にかいどう](神奈川県鎌倉市)
「二階堂」という苗字のルーツは「二階堂」という地名によるものだが、その地名は今も古都鎌倉に残っている。
「二階堂廃跡」・・・現代語訳はこの二階堂付近にはかつてお堂があり、それは奥州平泉にあった二階堂を模して造られ、永福寺(ようふくじ)と名づけられた。
頼朝が大軍を送り奥州平泉を征伐したのは1189年のことだが、その時頼朝が目にしたのが「二階堂」と呼ばれた大長寿院というお寺だった。
この寺院は宇治の平等院を模して造られたもので、正面中央に二階建てのお堂が据えられていた。
鎌倉に戻った頼朝が早速平泉で見た大長寿院を模して二階建ての寺院を建立しようと決意したのは当然の成り行きであった。
北条政子が二階堂にある藤原行政の家に赴こうとしたとある。
藤原行政のルーツは伊豆国であり、鎌倉幕府の要職を務めた行政が永福寺辺りに居を構えたことから「二階堂」を称したという。
9 雪ノ下[ゆきのした](神奈川県鎌倉市)
現在の「雪ノ下」のエリアは鶴岡八幡宮にほど近くなって地名が「雪ノ下一丁目」に変わる。
「吾妻鏡」によれば、頼朝は円暁の坊に出向いたとある。
相当な日陰地で、氷室を構える立地としては向いていたと言っていいだろう。
10 新宿[しんじゅく](東京都新宿区)
「内藤新宿」と呼ばれたのは、ここに高遠藩主内藤家の屋敷があったことによる。
今の新宿御苑である。
新宿はとても信州との繋がりが深い。
遊郭がつくられたことにより、多くの若い女性が飯盛り女として集められ働かされた。
彼女らは病気になって死ぬと投げ込み寺に葬られた。
新宿の投げ込み寺は、現在靖国通りにある成覚寺(じょうかくじ)である。
新宿にはもう一つの顔がある。
甲州街道沿いに玉川上水という上水路が流れていた。
政府は浄水場をこの新宿につくった。
場所は新宿西口一帯である。
1965年に東村山浄水場ができるまで、この「淀橋浄水場」が東京の水の供給源であった。
第4章
数字の示す意味は?
1 三田[みた](東京都港区)
「三田」は、もともとは「御田」であった。
「御田」という以上、朝廷や神宮に米を献納していたと推測される。
その献納先は今も三田にある「御田八幡神社」であったと思われる。
2 五箇山[ごかやま](富山県)
五箇山の由来に関しては、庄川沿いに「赤尾谷」「上梨谷」「下梨谷」「小谷」「利賀谷」(←これらの谷はたんまたはだんと読んでいる)の五つの谷間に集落が点在し、「五ヶ谷山」(ごかやま)と呼ばれていたのだが、それが変わって「五箇山」になったのだとガイドブック等では説明している。
3 六本木[ろっぽんぎ](東京都港区)
「六大名の屋敷があったので、それにちなんでつけられた」という説とこの地に六本の松の木があったという説の二つがあった。
どちらも信憑性に欠ける。
4 七五三引[しめびき](神奈川県伊勢原市)
大山詣での大祭中は、この地に「七五三引き」を行い、これより上には魚類を一切持ち込んではならぬ、という意味での「しめ」だったのである。
5 八景水谷[はけのみや](熊本県熊本市)
「八景」とは「ハケ」のことで、「崖」のことである。
「水谷」は文字通り「水の谷」である。
扇状地の遊水地であり、1924年に、八景水谷を水源地として整備された。
八景水谷を水源として得られた水は、近くの立田山に送水され、標高73㎡の立田山配水池から市内中心部に供給したという。
6 九度山[くどやま](和歌山県九度山町)
九度山町は空海が開いた高野山の麓にある町である。
空海の母が高野山を見たいと讃岐国からやって来たものの、高野山は女人禁制なので山に登ることは出来ず、政所に滞在せざるを得なかった。
そこで、空海はひと月に九度(・・・「多く」と言った意味だろう)、年老いた母を訪ねたところから「九度山」の地名が生まれたという。
慈尊院という真言宗のお寺がある。
この地に空海の母が滞在し、亡き後その霊を弔ったのがこの慈尊院なのだという。
7 十三[じゅうそう](大阪府大阪市淀川区)
十三の由来は淀川の十三番目の渡しであったと考えるのが妥当な線ということになる。
8 十八成浜[くぐなりはま](宮城県石巻市)
十八成浜の浜辺を歩くと「クックッ」と音が鳴る。
その音を「九+九」で十八と表記したことに昔の人のユーモアを感じる。
9 千日前[せんにちまえ](大阪府大阪市中央区)
法善寺横丁として知られる法善寺は浄土宗の寺で、この寺の隣に昔「竹林寺」というお寺があったという。
別に「千日寺」と呼ばれたという。
その「千日寺」の「前」だったので「千日前」という地名が誕生したのだという。
第5章
伝説を今に伝える地名
1 姫島[ひめしま](大分県姫島村)
大分県の北東に大きく突き出している半島が「国東半島」だが、その半島の北に小さく浮かぶ島が「姫島」である。
大分県にただ一つ残された貴重な村である。
崇神天皇の御世、一人の人物が今の敦賀にやってきた。
その乙女は難波に着いて比売語曾社(ひめこそしゃ)の神となり、さらにこの姫島村の比売語曾社の神となった。
姫は難波から来たものとされるが、大阪市東成区にも比売語曾神社が鎮座しているのだから、伝承といえどもバカにできない。
2 及位[のぞき](山形県真室川村)
この集落の裏手に「甑山」という山があった。
この山には、昔2匹の大蛇(山賊の類)がいて、悪行を繰り返していた。
そこに1人の修験者が通りかかり、何とかしてこの大蛇を退治しようと考えた。
修験者は、山の神の力で山腹をガラガラ崩して大蛇を埋めてしまったという。
大蛇のいなくなった「甑山」に入り、いわゆる「のぞき」の修行を始めた。
その後、修行を終えて、悟りを開いた修験者は、京に上って偉い層になり、時の天子から立派な位を授けられた。
こうして「のぞき」の修行から高い「位」に及んだことから、この地が「及位」と呼ばれるようになったという。
3 東尋坊[とうじんぼう](福井県坂井市)
その昔、荒木別所(福井市)に次郎市という若者がいた。
生まれつき力が強く、誰も次郎市にかなうものはいなかった。
しかし、力が強いだけではだめだと考えた次郎市は、比叡山に登って修行をし、のちに平泉寺(勝山市)に招かれて当仁坊と称したという。
その平泉寺には悪い僧も多くいて、その僧たちを当仁坊はことあるごとに諭そうとしていた。
ところが、悪い僧たちは当仁坊をけむたがって、「やつを消してしまえ」とたくらんでいた。
平泉寺では、毎年春になると三国港の先にある安島浦(今の東尋坊)に行って酒盛りをした。
当仁坊はもともと酒が好きで、大いに酔っぱらってしまった。
すると、一人の僧が、「当仁坊さん、向こうに見える船はどこの国の船かのう」と訊いたという。
当仁坊がよろよろと立ち上がって崖の縁に立ったところを、そばにいた僧が付き落としてしまった。
4月5日のことだった。
それまで晴れていた空が一転にわかにかき曇り、雨がどしゃ降りになり、稲妻が光り、岩に雷が落ちて多くの僧が死んでしまった。
さらに、炎は遠く東の平泉寺にまで及んで坊舎ことごとく焼き払ってしまった。
それ以降、毎年4月5日になると、どんなに晴天であっても、必ず激しいつむじ風が吹き、海が荒れるという。
その風は常に西から東に向かって吹くので、当仁坊はいつのころからか「東尋坊」と書かれるようになった。
伝説にはいくつものバリエーションがあって、この東尋坊そのものが悪者だったという話もある。
4 鉄輪温泉[かんなわおんせん](大分県別府市)
「豊後国風土記」には「玖倍理の湯」の温泉が記されているが、これが鉄輪温泉だろうとされている。
この湯は「加直山」の東にあり、この「加直山」が「鉄輪温泉」に転化したのではと考えられている。
5 鬼無里[きなさ](長野県長野市)
平成の大合併によって今は長野市一部になってしまっているが、もとは上水内郡「鬼無里村」であった。
主人公の名前は「呉葉」。
摩天に祈って生まれたという呉葉は生まれつき特殊な能力を持っていたらしい。
縁あって都に上り、源経基に仕え、「紅葉」と改名し、経基の寵愛を受けることになる。
ところが懐妊すると、正室を退けようと妖術を使い、夫人を病に陥れてしまう。
この陰謀が露見して、紅葉は信濃国の戸隠山中に追放されることになる。
紅葉は都の生活が忘れがたく、戸隠の近くの「水無瀬」の里を都に見立て、「東京」(ひがしきょう)、「西京」(にしきょう)を配した。
しかし、都では、紅葉が高貴な身分を利用して暴虐・乱行をきわめているという風評が流れ、天皇はついに平維茂に討伐を命じた。
維茂はいったん紅葉軍に敗北を喫するも、祈りをささげて戦い、ついに紅葉の首を打ち取ってしまう。
紅葉の首はこつぜんとして空に舞い上がり、どこかに消え失せてしまったという。
時に享年33であった。
この土地はもともと「水無瀬」であった。
だが、この伝説が生まれてから「鬼無瀬」となり、さらに「鬼無里」となったのだという。
面白いのは、鬼無里には今でも「東京」「西京」という地名が現存し、紅葉が住んだという屋敷の跡も「代理屋敷跡」として記念碑が建てられている。
6 鴻巣[こうのす](埼玉県鴻巣市)
鴻巣の由来に関しては鴻神社にまつわる伝説として各種の本に書かれている。
昔ここに大樹があって樹神と称していた。
鴻が来て枝の上に巣をつくったが、そこに大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。
鴻は大蛇を嘴でつつき殺してしまった。
神は人に害を及ばさなくなり、白鳥には害を除く益があるということから、「鴻巣」と呼ばれることになり、ついには土地の名になった。
7 姨捨[おばすて](長野県千曲市)
「姨捨山」は駅の裏手に連なる「冠着山」を指していたらしい。
若い息子が年老いた母を背負って山の中に入っていくと、「ポキッ、ポキッ」と枝を折る音が聞こえてきた。
山の奥に母を置いて帰ろうとした頃にはとっぷりと日が暮れて、辺りは真っ暗になってしまった。
すると母は「さっき、木の枝を折ってきたので、それを目印に帰りなさい」という。
その母心に胸を打たれた息子は、母を棄てることが出来ずに家に連れて帰り、密かにかくまっていた。
ある時、その国の殿様が隣の国からとんでもない無理難題を突き付けられた。
そこで、あの息子がかくまっている母に訊いてみると造作もないことだと教えてくれた。
また隣国の殿様が別の無理難題を突き付けた時、またしても解決策を教えてくれた。
殿様は、それ以降、老人を山に棄てることをやめさせた。
ここまで聞くと、姨捨山の棄老伝説は老人を大切にする話だったことがわかる。
8 走水[はしりみず](神奈川県横須賀市)
その昔、浦賀水道を渡ろうとした日本武尊が嵐に遭い、入水した弟橘媛によって助けられたという伝説が残されている。
相模国から一行を送り出した立場にあり、その意味で、神社名にも「走水」が強調されている。
9 女化[おなばけ](茨城県牛久市)
昔、根本村というところに忠七という若者がいた。
この里で一匹の狐を狙う狩人を見付けた。
忠七は狐を不憫に思い、大きなせきをして、狐を逃がしてやった。
ところがその日の夕べ、奥州から鎌倉へ行くという一人の男が、二十歳ばかりの女を連れて、一夜の宿を貸してくれと涙ながらに頼んだという。
不憫に思った母と忠七は二人を泊めてあげたのだが、翌朝起きてみると、男はすでになく、若い女はしばらくここに置いてほしいと頼み込んだという。
やがて、この女は忠七と結婚し、3人の子供も授かったのだが、ある日涙を流しながら、自分は昔根本が原で助けられた狐であって、人に悟られてしまった以上、一緒に住むことは出来ないと言って、穴に隠れてしまったという。
これは鶴の恩返しの話と同じものである。
10 鬼首[おにこうべ](宮城県大崎市)
その昔、征夷大将軍として坂上田村麻呂が東征した際、鬼と呼ばれていた敵の大将の大竹丸を追ってこの地で首を刎ねたことから「鬼切部」と呼ばれていたが、いつの頃からか「鬼首」というようになった。
11 不来方[こずかた](岩手県盛岡市)
三ツ石神社に「不来方」をめぐる伝説が残されている。
その昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて、住民を苦しめていた。
そこで三ツ石の神が鬼を石に縛り付けたところ、鬼は再び悪さをしないことを約束し、その証文として三ツ石に手形を押したという。
こうして鬼が再び来ぬようにということで、この地を「不来方」と呼ぶようになったという話である。
やがてこの地に進出した、盛岡藩の2代藩主が「不来方」は「心悪しき文字」と忌み嫌い、「森が崗」に改称したという。
その後いつしか「森崗」と転化し、4代藩主の代に「盛岡」と変えられたという。
「盛り栄える」という縁起をかついだ名称である。
第6章
古代史をたどる地名
1 不知火[しらぬひ](熊本県宇城市)
「不知火町」と言えば、「知らぬ人」がいないほど知られた町だったが、平成の大合併によって、「宇城市」という名称の市に統合されてしまった。
2 崎玉[さきたま](埼玉県行田市)
古墳群の外れに「埼玉」の地名の由来となった「前玉(さきたま)神社」がある。
3 安房[あわ](千葉県)
「安房」は館山市・鴨川市・南房総市一帯を指す。
阿波の斎部(いんべ)が阿波国から総国(現在の千葉県)に移ったと書かれている。
4 間人[たいざ](京都府京丹後市)
聖徳太子の母親は「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」と言った。
この地に滞在中、里人の手厚い持てなしを大いに気に入って、斑鳩に帰ろうとした際、自分の名前を村に与えようとした。
しかし、村人たちは皇后さまのお名前を頂くことなぞ滅相もないとして、皇后が「ご退座」されたというところから「間人」を「たいざ」と読むことにしたのだという。
5 安曇野[あずみの](長野県安曇野市)
「安曇」という地名は、その昔、九州地方に勢力をもっていた安曇族がこの地に移住してきたことによる。
もともと安曇族は海洋民族で、日本各地にその痕跡を残している。
6 宍道湖[しんじこ](島根県松江市)
「出雲の国を治めておられた「(大国主命)が犬を使って猪狩りをされました。
(猪の通った道という意味から)この地域を猪の道=宍道(しじ)と呼ぶようになりました」。
かれこれ1300年前の話である。
東北地方に見られる「鹿踊り」も「しし踊り」である。
7 金華山[きんかさん](宮城県石巻市)
江戸時代に金を生んだ神様として崇められるようになったことから、その島は金華山と呼ばれるようになった。
8 善光寺[ぜんこうじ](長野県長野市)
「善光寺」という寺の名前は「善行(よしみつ)」という一人の人物名によっている。
お釈迦様がいた頃、インドに月蓋(がっかい)という長者がいた。
信仰心のない男だったが、娘の「如是姫」の病を治してくれたことから阿弥陀如来を崇めることになり、それがやがて百済国に渡り、さらに日本に伝えられたのだという。
これが日本に伝えられた最古の仏像であったが、結局仏教を信奉しようとした蘇我氏にこの仏像の所管を任せることにした。
ところが物部氏が攻撃をかけ、この仏像を堀江(運河)に投げ捨ててしまった。
その後しばらく時が経ってのこと。
信濃国の本田義光という人物がこの地を通りかかったところ、どこからか「義光、義光・・・・」と呼び掛ける声が聞こえた。
すると、「我を信濃に連れて行くように・・・・」とおっしゃたという。
そこで、自分の故郷の伊那(現在の飯田市)に持ち帰り、そこに「坐光寺」いうお寺を造り、阿弥陀如来を祀ったという。
ところが41年後に水内群(みのちのこおり)(今の長野市)に移すことになり、その寺の名を本田義光にちなんで「善光寺」とした。
そこで伊那の坐光寺は「元善光寺」と呼ばれることになった。
およそ、今から1400年も前のことである。
義光が阿弥陀如来を拾ったとされる大阪府藤井寺市小山にも「元善光寺」というお寺があり、藤井寺・飯田・長野というルートで善光寺は移動していったことになる。
善光寺が今のような盛況を迎えるのは鎌倉時代以降のこととされている。
9 比叡山[ひえいざん](滋賀県大津市)
「延暦寺」という寺号を嵯峨天皇から賜ったのは、最澄没後のことであった。
「延暦」は桓武天皇の時の元号であり、元号を寺号として下賜したという点に、いかに朝廷が延暦寺を重視していたかが表れている。
最澄が薬師如来を本尊とする「一乗止観院」を点てたのは788年のことで、それ以降、この比叡山に三塔十六谷の堂塔が建立され、天台宗の総本山となった。
一乗止観院のちに根本中堂となるが、幾多の戦火で焼失し、今の建物は三代将軍家光によって建立されたもの。
国宝に指定されている。
さて比叡山の前は何と呼ばれていたか。
実は「比叡山寺」という名前だった。
10 太秦[うずまさ](京都府京都市)
この地に渡来人の秦氏が住むようになって、その秦氏と聖徳太子は主従関係を結ぶことになった。
当時の秦氏の中心人物・秦河勝のもとに太子から贈られたのが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像ではないかと言われている。
この弥勒菩薩は法隆寺の夢殿に安置されている弥勒菩薩とほぼ同じ形態をしており、朝鮮半島の影響を受けたものである。
「日本書記」によると、秦の一族がばらばらに散らばっていたので、秦酒公はうまく統制出来なかった。
そこで天皇が詔を出して秦酒公のもとに馳せ参じるべしとしたので、秦氏は感謝の気持ちで天皇に絹を献上し庭にうずたかく積んだので「兎豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜ったという。
秦氏は半島を通じて養蚕や酒造の技術を日本にもたらしたとされ、その後の日本の産業の基礎をつくった。
第七章
武人たちの鼓動を伝える地名
1 鵯越[ひよどりごえ](兵庫県神戸市兵庫区)
「一の谷の合戦」で、義経が「鵯越」を敢行し、山の上から一気に駆け降りる、いわゆる「逆落とし」で平氏を打ち破ったというのは有名な話だ。
ただ、この由来に関してはいくつかの説があるが、正解はない。
2 蹴上[けあげ](京都府京都市東山区)
「蹴上」という風変わりな地名の由来は、義経に水を蹴ったところからきている。
3 相去[あいさり](岩手県北上市)
寛永年間、岩手県の江刺・胆沢両郡が伊達政宗の領地に、和賀以北が南部利直の所領に、それぞれ定められたのだが、どうもその境目がはっきりしない。
境目をはっきりさせようと、伊達の殿から南部の殿に申し入れがあった。
「双方が同日同時刻、午に乗ってお城を出て出会った所を境にしようと」という提案である。
これは南部侯にとっ有利と思える提案であった。
結果は南部侯は牛に乗って来たにも関わらず、何と伊達侯は「馬」に乗って来ているではないか。
これは伊達侯の作戦勝ち、という落ちである。
単なる読み間違いであった。
結局、伊達侯と南部侯はここを「相去って」「相去」という地名が生まれた。
4 桶狭間[おけはざま](愛知県)
桶狭間とは「崖地」で「狭くなったところ」でこの上もない難所であった。
5 安土城[あづちじょう](滋賀県近江八幡市)
安土はもともとは(あど)と呼んでいたようだ。
安土城跡は190㎡の高さの頂上にある。
私も大昔、ここを訪れたことがあります(当時は特に感慨はありませんでしたが何もない、が印象的でした)。
6 関ケ原[せきがはら](岐阜県不破郡関ケ原町)
「不破」とは、いかにも軍事的な目的で命名されたことが明白で、その流れの中から「関ケ原」という名称が生まれたとされる。
中世においては「関ケ原郷」、関ケ原の合戦以降の近世には「関ケ原村」となり、1928年に「関ケ原町(ちょう)」となって現在に至る。
7 巌流島[がんりゅうじま](山口県下関市)
この島が決闘の地で、伝承によると、武蔵の一振りで勝負が決したという。
しかし、どうやら真実は闇のままだ。
最近の情報だと、武蔵は先に来ていたとか、小次郎は青年ではなく70歳を超えた老人であったという説まで出ている。
ただ、勝負に負けたのが小次郎だったことは事実で、この島の名を小次郎の流派から「巌流島」と名づけたのだろう。
島の一角に小次郎を悼む碑が建てられている。
8 田原坂[たばるざか](熊本県熊本市)
この田原坂は、なだらかな丘を掘りぬいて道が通っていたのである。
この道は、西南戦争からさらに300年さかのぼった時代に加藤清正公が造ったものである。
問題は「田原坂」の意味である。
東日本の人間から見ると「原」を「バル」と読むのは違和感があるが、西日本ではごく当たり前である。
もともと「ハリ」「ハル」とは「開墾」を意味している。
この「田原」も「田畑などを開墾した地」といった意味である。
第8章
北海道開拓がもたらした地名
1 知床[しれとこ](北海道東部)
「知床」はアイヌ語の「シリエトク」に由来すると言われ、「大地の頭の突端」あるいは「大地の行きづまり」という意味である。
2 幸福駅[こうふくえき](北海道帯広市)
この地域一帯は明治時代に主に福井県の人々が移住して開発された所であった。
「幸福」の「福」は「福井県」の「福」なのである。
札幌市の隣にある「北広島市」は明治17年以降、広島県から移住したことが縁でつけられた地名である。
3 定山渓[じょうざんけい](北海道札幌市)
「定山渓」という地名は「定山」という一人の僧がこの温泉を開拓したという史実から命名されたものである。
温泉場に至る道は難所続きの険しい山道で、病人や怪我人を連れて行くのは、とても不可能であった。
念願の道路が完成したのは1871年のことであった。
この年、時の東久世開拓使長官が定山の功績を讃えて、この地を「定山渓」と命名したとのことである。
第9章
都市名に隠された歴史
1 仙台[せんだい](宮城県仙台市)
陸奥・仙台藩の初代藩主である伊達政宗が名づけた「仙台」は「岐阜」と名づけた織田信長を意識しての命名らしい。
2 会津若松[あいづわかまつ](福島県会津若松市)
「古事記」では、「相津」という漢字を使っている。
その「相津」が後に「会津」に転化したということになる。
「津」は言うまでもなく「湊」を意味するのだが、かつてこの「会津平野」(地元ではこう呼んでいいる)は湖であったと言われている。
現在の会津若松一帯を長く支配していたのは葦名氏であった。
伊達政宗がその葦名氏を攻め、政宗が一時この地を治めることになるが、秀吉の「奥州仕置」によって政宗は岩出山城に移ることになる。
その代わりにこの地に入ったのが近江国の蒲生氏郷であった。
氏郷はやむなく故郷を捨てて黒川に移ったとされ、故郷にあった「若松」という地名をとってこの地を「若松」と名づけ、城の名前も「会津若松城」とした。
3 平塚[ひらつか](神奈川県平塚市)
原文は「平らかなる」でそれを「平になった」と訳しているが「平であった」と訳すのが正しい。
坂東の武士のもとに嫁ぐ途中で亡くなった政子への思いを後世に伝えようとしたメッセージであろう。
そうなると「平塚」の「平」は平氏のことになる!
4 松本[まつもと](長野県松本市)
信州松本地方には、甲斐国・武田信玄の影響が、かなり強く残っている。
松本地方が昔、ある期間、武田信玄に一方的に支配されたという歴史がある。
32年間、武田によって支配されてきた深志城を取り戻した小笠原貞慶は、「今後、深志を改めて松本と号す」
5 名古屋[なごや](愛知県名古屋市)
徳川家康がこの旧那古野城跡に巨大な城を造ることを命じたのは1609年のことであり、5年後には金の鯱が輝く名古屋城がほぼ完成した。
現在の名古屋の基礎をつくったのは外ならぬ家康であった。
「名古屋」のルーツは「根古谷」だった。
「根古谷」が「那古野」になり、家康によって「名古屋」とされたと考えることが出来る。
6 岐阜[ぎふ](岐阜県)
当時は「稲葉山城」と呼ばれていたが、1567年織田信長が斎藤龍興と戦って勝利を収め、城下の「井之口」という地名を「岐阜」と改称した。
それにちなんで「稲葉山城」も「岐阜城」と改称したという。
「岐阜」の由来は沢彦宗恩が「岐山・紀陽・岐阜」という三つの地名を提案し、信長が選んだとされている。
信長の頭には居城した金華山が(左右を見分けることが出来る大きな崗)に見えたのではないか。
天下を取る人ならではの着眼点である。
7 金沢[かなざわ](石川県金沢市)
兼六園の髄身坂の出口から出てすぐの所に金澤神社があるが、その一角に「金城霊澤」という井戸があり、これが「金洗澤」だと伝えられる。
前田利家が納めた間は、意図的に「尾山」と使ったという。
それは利家が「尾張」出身だったからともいう。
8 富山[とやま](富山県富山市)
海から3000mもの山並みを望めるのは、日本広しといえども、この富山だけだ。
城郭を「富山寺(ふせんじ)」という寺の境内に建設したことにより、「外山」を「富山」に改めたのだという。
「富山寺(ふせんじ)」はその後「普泉寺」と名を変えたが、明治の頃に元の字に改められ手今も現存する。
9 福井[ふくい](福井県福井市)
柴田勝家が築城した城は「北ノ庄城」と呼ばれた。
賤ケ岳で秀吉に敗れ、最後は北ノ庄城でお市の方とともに自刃してその生涯を閉じた。
北ノ庄城はわずか8年の命だった。
江戸時代になって越前に入府した結城秀康は、今の福井城址に築城して北の庄の町を整備した。
しかし、三代藩主松平忠昌が「北ノ庄」という地名から「福居」に変更した。
「福井」のルーツは「福居」にあった。
10 高槻[たかつき](大阪府高槻市)
この地は元々「ツキノキ」(槻ノ木)が自生していた所だと推測される。
高槻市のマークはこの「槻ノ木」をシンボルとして使っている。
本丸はどこにあったかというと、その名もずばり「大阪府立槻ノ木高等学校」がある地点だという。
「城跡公園」のすぐ隣だ。
矢張り、高槻は「槻ノ木」に発しているのだ。
11 堺[さかい](大阪府堺市)
この地が摂津国・河内国・和泉国の「堺」にあったというところからついたとされる。
余談だが、CMで有名な「サカイ引越センター」のルーツがこの堺市である。
昭和46年に新海商運(株)が堺営業所を開設したことがきっかけで、昭和56年に「堺引越センター」となり、平成2年に「サカイ引越センター」と改称した。
12 姫路[ひめじ](兵庫県姫路市)
「姫路の十四丘」の伝承の最後が、「日女道丘」で後に「姫路」という香しい地名になったということである。
姫路城が建っているこの丘が「日女道丘」である。
13 松江[まつえ](島根県松江市)
かつて中国の呉に松江という所があって、そこの名産だった鱸とじゅんさいが共通しているので、「松江」と名づけたというのである。
14 高知[こうち](高知県高知市)
一豊公は1601年6月、「大高坂山」に城地を定め、2年後に本丸が完成した時、在川和尚に相談したところ、「河中山(こうちやま)」でどうか、という上申があった。
ところがその後、南と北を流れる川に洪水が起こったため、二代藩主が空鏡上人に申し付けたところ、城地を「高知」と名づけたのである。
高知の城下は「鏡川」、「江ノ口川」の二つに挟まれたエリアにあり、その地形は今も変わっていない。
15 福岡[ふくおか](福岡県福岡市)
黒田長政は「福崎」と呼ばれていたこの地を「福岡」という地名に改称、そこから「福岡城」という城名も誕生した。
その福岡という地名は、黒田氏ゆかりの備前国「福岡郷」からとったものである。
現在は「岡山県瀬戸内市長船町福岡」という地名になっている。
16 熊本[くまもと](熊本県熊本市)
「熊本」という地名は、熊本城の初代城主となった加藤清正が命名したとされる。
熊本城を完成した1607年にそれまで使われていた「隅元」を「熊本」に変えたというのである。
17 豊見城[とみぐすく](沖縄県豊見城市)
「グスク」は通常「城」という漢字があてがわれることが多いが一般には、①聖地拝所説、②城節、③集落説などがその由来とされる。
琉球には14世紀から15世紀にかけて、北山、中山、南山という三つの勢力が覇を競っていた。
この豊見城は南山の最北端に位置する砦である。
三山を統一したのは尚巴志という人物で、ここに琉球王国が成立した(1429年)。
那覇はその都として大いに栄えた。
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これは実に面白い本でした。
地名は私にとっても興味があったのですが、中々買ってまで読むという勇気が今まで湧きませんでした。
この本も入院前に買っておいたものですが読み始めたら一気呵成に読み進めました。
地名の由来等は全く知らないことばかりでしたので大いに勉強になりました。
普段何気なく見聞きしている地名にこんな由来があったのだと自分が新発見でもしたかのような興奮を覚えたものです。
谷川彰英氏はALSという難病にもかかわらずこの本を認められました。
先ずはそのことに対して敬意を表したいと思います。
読み終わって少しはまともな日本人になったかもしれないと思い、感謝申し上げます。
有難うございました。
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