1/29、3度目の救急搬送によって今度は入院出来る病院を探して貰いました。
1/25、1/26のように帰されたら堪ったもんではないので...。
伊豆の国市の担当者の方にも協力して頂き救急車は走りながら入院出来そうな病院を伊豆の国市の担当者と連携しながら確認して貰いました。
昼過ぎに三島の病院に到着。
今回は腰の圧迫骨折と言うことでしたが私自身経験がないのでどの程度の入院になるかは皆目見当が付かなかった。
取敢えずコロナ病棟(仮)・・・コロナが流行した際に増設した部屋らしいに入室。
病院のベッドは転倒防止保護柵(高さ20~30cm)が付けられており患者の転倒防止を図っている、が患者には猛者がいてそれを乗り越えようと頑張っているのを発見され何度もナースから注意を受けているのが聞こえた(6回の部屋替えを通して幸いにも私の同居人にはそう言う人はいなかった)。
1/29から2~3日同じ夢を見た。
それは空間移動して我が家のいつも自分が座っていた部屋の椅子に陣取っている夢です。
あり得ないことですが自分が入院した事実が理解出来なくてそれが夢にまで現れているのです。
当然のことながら目の前にパソコンがあってもパソコンは使えないし、オーディオで音楽を聴くことも出来ません。
これは夢だってことは直ぐに理解しましたが3日間ほど続いたのは余程この入院事実を認めたくなかったのでしょうね。
そんな中、昔良く耳にしたのに「かもめが翔んだ日 」のアーティストの名前が出てこない・・・これがショックでした(渡辺真知子)・・・アルバムは持っていません。
どうも腰・膝の痛みが激しくて頭が真っ白け(記憶が翔んだ ・・・かもめが翔んだに掛けた)になったようです。
入院直後は点滴で栄養補充(食事が出来る状態ではありません・・・全く起き上がれないから)。
この状態での入浴は体ごとベッドからストレッチャーに移動させられ風呂場に直行、スッポンポンになってまるで俎板の鯉です(汗)。
2/2、一般病棟に移ってコルセットの採寸、2/8に出来上がった。
コルセット着用後は何とかベッド上を斜め起き(私は右利きだから右側へ起き上がる)しその状態で食事です(飲み物は全てストロー使用・・・斜めなのでこぼす恐れある為)
一安心と思ったら2/16コロナに罹った(どうも出入り業者の方が感染源らしい)。
この時はナースの皆さんも以前TVで見た完全武装の状態なので誰が誰だかさっぱり分かりません(汗)。
病院内での感染なので対応は早く重症化することもなく2/28には隔離解除(同部屋の最終解除者に合わせた為10日以上掛かった)。
ベッド上で座って食事が出来るようになったのは正直いつからかは記憶がないので分かりませんが徐々に起き上がりの角度を上げ普通に座って食べられるようになったのは暫くしてからでした(ここまではおむつの完全武装)。
それから少しづつバルーン装着(前立腺の中を通る尿道にステントを挿入し、尿の通り道を開通させ、排尿出来るようにする治療法) の24時間いつでもおしっこが出来る状態のシステム・・・尿道にチューブを装着しチューブの後方の袋に貯めるようにしたもの。
2/29村田さんが病院へ来てTV面談(コロナが収束していないのでその代わりに病院が設定したようだ)の予約をした、とのこと。
その時村田さんからは1万円の差し入れがありました。
これは早速マスクの購入に充てさせて頂きました(私は入院の際、お金は一切、持って来ていませんでした)・・・カード類は持って来ました。
その後両膝のサポーター・更にはコルセット代とリハビリシューズ(2足)を購入(5/14に近く(と言っても5分以上の移動)のコンビニにリハビリの先生に車椅子を押して貰って10万円引き出し残金の内、5万円は自分で管理するのは危険(病室は24時間ドアは開いた状態なので病院の事務方に預かって貰い退院時に受け取りました)。
村田さんが私の入院先を探し出すのには相当な時間を要したようです。
私を運んだ救急車がどの消防署に属しているか当たりを付けて直接確認に行かれたようです、が個人情報の壁にぶち当たり中々教えて貰えなかったようです。
私自身は病院内を歩ける状態ではないので連絡が出来ません(病室からの電話は禁止・・・尤も私はスマホを持っていないので最初から出来なかった)。
村田さんの粘りの交渉で何とか他の場所で情報を教えてくれるかも知れないと言うことを聞き出し、そちらを訪問、何とか入院先を聞き出せた、とのこと(そもそも私が入院前に村田さんに今生のお別れみたいなメールを出した所為です・・・申し訳ありません、本当に駄目だと思いましたから)。
しかし個人情報の問題は度を過ぎると壁が出来て間に合わない、と言うこともあるので少し考え直して貰いたいモノですね(私はそのレベルではなかったけれど)。
入院から1ヶ月が過ぎて漸く知人(村田さん)に(TV画面ですが)会えたのはホンと嬉しかった。
私も車椅子でリハビリの先生に病院内の公衆電話があるところまで連れて行って貰えるようになってからは何人かに電話連絡したけれどリハビリの時間が減ってしまうのは本末転倒なので痛し痒し・・・この頃にはシャワー風呂と言って浴室に入って椅子に座って最初はナースの手で洗って貰いました・・・その後少しづつ自分で出来るようにして行きました)。
前と後ろだけは自分で洗いました(入浴は週一が多く一時的には週2回もありましたがスタッフ不足で元の週一に戻った時は正直がっかりしました)。
あっと言う間に救急病院の規約で2ヶ月が過ぎ、3/29、私は3階の障害者病棟に移り退院時までリハビリ・療養が続きました。
私が入院した時期は冬真っただ中の1/29です。
毎年恒例の指先のひび割れ(アカギレ)、霜焼け(何れも部屋の中にいてなるのですから如何に冬に弱いか、ですね)、それが入院して暖房が聞いた部屋で1日中過ごした所為で4月を迎える頃にはすっかり跡形もなく治ってしまいました。
逆に乾燥肌が一層ひどくなりました。
風呂も1週間に1回が殆どで余り効果がありません。
アメニティ(病院が契約しているパジャマ等の供給会社)で供与のニベア(保湿剤)を塗ってみましたが余り効果はなかった様に思います・・・退院後の今でも乾燥肌のまま。
市街地と違い湿度の高い山へ戻れば少しは改善するかも知れない、と神頼み状態です(汗)。
以前からアマゾンで保湿剤は購入しているので風呂の度に塗ろうかと思いますが、これが1週間に2度の入浴なので病院よりは多いのですが当分ヘルパーさん頼みなので仕方がありません(一人で入って転倒したのでは元も子もありませんから)。
色々なところで不自由と言うハードルが待ち構えているのが私の現状です(泣く)。
後半には村田さんが、掲示板のコピーを持って来られてトドの裁判は終盤に入っているとのことでした(トドは完全に参っていると言われていました)。
ただし和解案には応じずの気持ちは固いようです。
和解してしまうと今迄の苦労も水の泡ですので判決で金額が僅少になってもトドの懲戒免職・強制執行で二度と弁護士を名乗って悪さが出来ないようにしないと不完全燃焼になる・・・「鬼平犯科帳」からあいつは長谷川平蔵と名乗っていたこともありましたがまさに令和の時代では長谷川平蔵=トドがお仕置きされるの図であります。
私もトドの懲戒免職・強制執行を望んでいますので確実に勝ち取って頂くようお願いしました(兎に角全国津々浦々に被害者はおられます・・・和解ではそれらの方々の無念は晴れませんから。
(豆知識)
ナースの皆さんに励まされ楽しい入院生活を過ごせました。
皆さんの返事が兎に角明るく元気なのです。
良く耳にして記憶に残っているのが「はーい、アイよ」でした。
「はい、はい」等の二度返事は全く聞かれませんでした・・・病院の教育が良いことが良く分かりました。
入院中の食事は全て黙食でした・・・それも壁かカーテンの前で(家ではTVを見ながらです)。
又、当病院に入院された人の最高齢者は108歳と言うことでした。
現在も100歳超の方が入院されているようです。
なお私の同部屋の高齢者ベスト3は98、93、90歳(年齢は何かの切っ掛けで知り得たもの)でした(私自身部屋は6回変わっています)。
私自身は未だ若い方に属すると言われました(老々介護が現実問題となっていることが良く分かりますね)。
長生きは素晴らしいことだが、最後はピンピンコロリが宜しいようですね、皆さんに余り迷惑を掛けずに済みそうです。
なお↑の98歳のおじいちゃんは折り紙の達人でした。
毎日ベッドにちょこんと座り何も見ないで次々と作品を完成しナースや掃除のおばちゃんたちに見せて喜ばれていました。
私は掃除のおばちゃん経由見せて頂くようにお願いし見せて頂きお礼を言ってお返ししようとするとどうぞお持ち下さいと言われ、そのまま受け取り退院時持ち帰りさせて頂きました。
昔から折り続けているのでしょうね。
何も見ず折っているのは達人と言って差し支えないですね。
私自身部屋替えになってリハビリの際、以前いたこの部屋の前を通った時に入り口のドア(開放)に飾ってありました(ナースか誰かは分かりませんが飾ってくれたのでしょうね)。
今でも入院されているのでしょうか。
お元気で...。
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